言葉にできるは武器になる
言葉にできるは武器になる/梅田悟司
なんであの人の言葉は響くんだろう。
言葉は思考の上澄みでしかない。
感情の根元へと踏み込むこと。
短い時間でも印象に残る、刺さる言葉を知りたいと思い購読。
電通のコピーライターの経験からどのように言葉を武器にするか。
自分の中の言葉、
内なる言葉など、理解すること、効果測定もアクションにもしづらい本だけど、読んで良かった
自分の普段伝えてるが刺さらない言葉をチョイスして、磨き上げる。
①
なぜ?
それで?
本当に?
の3つで深掘る
②
方向性の幅、深さでグループに分ける
グループの中で足りない箇所を補う言葉を見つける
③1日を一言で表す
ヨハネによる福音書
1章「ことば、神、いのち」
初めにことばがあった。言葉=神 言葉には命がある。この命は人となって私たちとともにある。
ヨハネ=光について語る人
光そのものではない。
ヨハネはバプテスマを授けるのか?水でバプテスマをしているが、キリストの靴紐を結ぶ価値もない人であると言われている。
ヨハネはこの方が神の子だと証言した。
アンデレ、ペテロ、ピリポらがイエスについていった。ナタナエルもイエスを神の子と信じた。
2章「カナの婚礼と宮きよめ」
カナの婚礼でイエスは水をぶどう酒に変える最初の奇跡を行い、弟子たちがイエスを信じる。
自分の体=神殿
エルサレムの神殿で商売人を追い出し、彼らが反論すると、証拠として三日で神殿を建てると言う。これは自身のことを示していた。
多くの人々がイエスのしるしを見て御名を信じた。
3章「永遠のいのち」
イエスはユダヤ人の指導者ニコデモに、新しく生まれなければ神の国を見ることはできない、それは水と御霊によって生まれることと語る。御子を信じる者は永遠のいのちを持つ。ヨハネはイエスがバプテスマを授けているのを見て、自分が衰えるべきと認めて喜ぶ。
4章「サマリヤの女と生ける水」
イエスはサマリヤの井戸で水を汲みに来た女に語りかけ、生ける水のことを話し、女の身上を明らかにする。女は驚いてイエスをサマリヤ人たちに広め、彼らはさらに自分たちで聞いてイエスを救い主と信じる。イエスはカナで役人の病気の息子を癒し、その家の者がみな信じる。
5章「イエスを証言するもの」
ユダヤ人
イエスは38年間病気だった人をいやしたが、その日が安息日だったこと、
またご自身を神を父と呼び、神と等しくしたと思ったことでユダヤ人たちはイエスを殺そうとする。
自分は何もすることはできない。
子を愛し、子に示すからだ。父が死人に命を与える
明かすことはない。
ヨハネは燃えて輝くあかり。イエスの業はそれより強いあかりなのだ。
イエスは彼らに答えて、自分のことばを聞いて自分を遣わした方を信じる者は永遠のいのちを持つ、聖書が自分について証言していると語る。
イエスは人からの誉れを受けることはしない。
6章「いのちのパン」
パンは御言葉のたとえで
パンくずは????
ガリラヤの海、テベリヤ湖へ
イエスは五千人をパンと魚で満たした後、
カペナウムに行く、たずねてきた群衆へ答える。
「朽ちる食物ではなく、永遠の命に至る口ない食物のために働くがよい。」
なくなる食物ではなく永遠のいのちに至る食物のために働くこと、
「神の業を行うために私たちは何をしたらよいでしょうか」
神が遣わされた者を信じること、が神の業
イエスがいのちのパンであること、
信じる者は永遠のいのちを持つこと。
「神の御心は信じたものを終わりの日に蘇らせる」神との関係の復活のこと
「ヨセフの子イエスだから、天から降ってきてはない。」とユダヤ人はつぶやく
キリストは天から降ってきた生きたパンである。
自分の肉をである。私の地を飲むものにはm永遠の命がある。
しかし多くの弟子がつまづき離れ去る。
人を生かすのは霊であって、肉はなんの役にも立たない。
7章「イエスはキリストか」
イエスは仮庵の祭りに密かに上って行った。
「上辺で人を裁かないで、正しい裁きをするがよい」
群衆はイエスについて様々な噂をしていたが、イエスが宮で教え始めたのを聞き、イエスがキリストであると信じる者、信じない者に分かれる。
イエスは自分を信じる者には心の奥底から生ける水の川が流れるようになると語る。
☆8章「イエスはどこから」
イエスは、自分を告発する口実のために連れてこられた姦淫の女を赦す。
「あなた方は下から出たものだが、私は上からきたものである。」
そしてパリサイ人たちに、自分が世の光として父なる神から遣わされた者であること、自分を信じるべきであることを話す。しかし彼らは悟らず、イエスを悪霊につかれているとして信じようとはしなかった。
☆9章「盲人の目を開く」
人々は彼をパリサイ人のところに連れて行って見せるが、彼らは彼の言うことを信じず、その両親も問い糺す。
彼はイエスが目を開いてくれたという事実を繰り返し伝えるが、パリサイ人たちは聞く耳を持たず、逆に彼を外に追い出してしまう。
☆10章「わたしと父とは一つです」
イエスは門であり、自分を通して入るなら救われる、また羊を愛する良い牧者であると説く。
ユダヤ人たちはイエスがキリストなのかを問うが、イエスが自分は父と一つだと言ったため石打ちにしようとする。イエスはわざを信用するように言い、実際多くの人々がイエスを信じる。
☆11章「ラザロを蘇らせる」
イエスはラザロが病気であることを聞くが、2日行かずにとどまる。
ユダヤに行こうといわれた。
「私を信じるものはいつまでも死なない。」
マルタは信じる
ラザロは死に墓に葬られたが、イエスは自分を信じるものは死んでも生きると語り、墓に行って神に祈りをささげた後、ラザロをよみがえらせたので人々は信じる。
祭司長らはイエスの評判を恐れ殺そうとする。
彼らはこの日からイエスを殺そうとしたのでイエスは荒野に近いエフライムに滞在した
12章「光がある間に信じよ」
過越の祭の前にマリヤはイエスに高価な香油を注いで髪で拭い、ユダから責められる。
イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入ると大勢の人々が歓迎するが、それはパリサイ人たちの焦りを引き起こす。
イエスは自分が一粒の麦となって死ぬことを予告し、光がある間に光を信じるようにと説く。
13章「裏切る者」イエスは過越の夕食のとき、弟子たちの足を洗い、これを模範として弟子たちも互いに足を洗い合うようにと言う。席上、イエスは弟子たちの中に自分を裏切る者がいることを示し、ユダを指したので、ユダはそこから出ていく。イエスは私たちが互いに愛し合うようにと語る。
14章「父を見る者」イエスは自分が父なる神のみもとへの道であり、真理、いのちであると語る。イエスを知る者は父を知り、イエスのことばを守るのは父のことばを守ること。イエスは助け主である聖霊を信じる人々に送るようにと父に願う。この聖霊は世が与えるのとは違う平安を与える。
15章「友であるイエス」
イエスは続けて語る。弟子たちはぶどうの枝で、イエスという木につくことで実を結ぶ。イエスの愛の中にとどまり、弟子たちが互いに愛し合うことが戒めとして与えられる。イエスは主人ではなく友なので、世が弟子たちを憎むならイエスを憎むと同じ。御霊がイエスをあかしする。
16章「世に勝った方」
イエスは、間もなく世を去って父のみもとに行くこと、そして代わりに助け主、聖霊が来て真理に導き入れると語る。弟子たちがその意味を解せずにいたので、イエスは今は悲しみがあるがその後は喜びに満ちる、世では患難があるがイエスは世に勝ったので勇敢であれと語る。
17章「彼らが一つとなるため」イエスは神に祈る。永遠のいのちとは父とイエスとを知ること。彼らが父のものであること。父の御名のもとに彼らを保ち、父とイエスと同様に彼らも一つとなるように。彼らが悪い者から守られるように。真理によって彼らが聖め別たれるように。彼らがイエスといるように。
18章「尋問されるイエス」
ユダの裏切りによりイエスは捕らえられ、アンナス、次いで大祭司カヤパの元に送られる。尋問の最中、ペテロは予告通りイエスを3度否定する。
イエスは総督ピラトの元に送られる。
ピラトは自分が王であり真理のあかしのために来たというイエスに罪を認めなかった。
19章「十字架のイエス」
ピラトはイエスを釈放しようと努力するが、ユダヤ人たちが十字架につけるよう激しく叫んだので、とうとうイエスを引き渡す。イエスはゴルゴタ(髑髏)で十字架につけられる。十字架上での出来事は聖書の成就であった。アリマタヤのヨセフはイエスの亡骸を引き取り、墓に納めた。
20章「よみがえったイエス」
マグダラのマリヤはイエスの墓から遺体がなくなり泣いていたが、そこでよみがえったイエスに会う。
イエスは戸を閉めた家の中に現れ、弟子たちに自分を示す。その場にいなかったトマスは信じなかったが、実際にイエスに触れて信じる。イエスが神の子、いのちであることを示す。
21章「わたしを愛しますか」
湖で漁をする弟子たちがイエスの言葉に従うとおびただしい魚が取れた。みなで朝食をとったあと、イエスはペテロに「私を愛するか」と3度問う。
ペテロは心を痛めながら「あなたを愛することはあなたがご存じです」と3度答える。そしてペテロがどんな死に方で神の栄光を表すか示唆する。